連載「世界をつくりなおす、7つの話」 第3話(全7話)
太陽は、見返りを求めない
太陽は46億年のあいだ、地球に一方的にエネルギーを注ぎ続けています。請求書は来ない。返済も要らない。植物は使い切れないほど受け取り、生命は必要以上に増え、実りは必要以上に実る。
つまりこの星は、根本のところで「足りない」のではなく「もらいすぎている」。まずここから話を始めたいんです。
問題は「足りない」じゃなく、「余る」
経済学の教科書は「資源は希少である。どう配分するか」という一文から始まります。でも、まったく逆から世界を見た人がいました。フランスの思想家、ジョルジュ・バタイユ。
彼の主張はシンプルです。生命にとっても社会にとっても、本当の問題はいつも余剰のほうだ。「余りを、どう使い切るか」こそが、人間社会のいちばん深い問題なのだ、と。
📖 バタイユ『呪われた部分』
1949年刊。個人や企業の損得を扱う経済を「限定経済」、太陽エネルギーから始まる地球規模のエネルギー収支を扱う経済を「普遍経済」と呼び分けました。生命は必ず、成長に使い切れない余剰=「呪われた部分」を生む。その余剰をどう消尽(蕩尽)するかが、あらゆる文明の性格を決める——という壮大な経済思想です。
余りは、必ずどこかで燃える
ここがバタイユのいちばん怖いところです。余剰は、消せない。選べるのは燃やし方だけ。
祭り、芸術、供犠、贈与、贅沢——栄光ある形で燃やすか。それとも、溜め込み続けた末に、破局という形で暴発させるか。彼がこれを書いたのは、二つの世界大戦の直後でした。戦争とは、燃やし場を失った余剰の、最悪の出口だというわけです。
▶ 余剰はこうして溜まっていきます。あなたなら、どうしますか。
「芸術は、爆発だ」
バタイユの話は難しく聞こえるかもしれません。でも、同じことをたった一言で言い切った日本人がいます。
岡本太郎。「芸術は爆発だ」。
これは奇抜なキャッチコピーじゃなくて、恐ろしく正確な定義だと僕は思っています。芸術とは、エントロピー最大の状態。溜め込んだエネルギーを、計算も回収も考えず、一瞬で解き放つこと。積み上げの論理の、完全な外側にあるもの。
しかも太郎は、それを言葉だけで終わらせなかった。1970年の大阪万博——「進歩と調和」を掲げた、生産性と技術の祭典。そのど真ん中に、なんの役にも立たない、へんてこな塔を突き立てました。丹下健三が設計した整然とした大屋根を、ベリッと突き破って。実業家的世界の祭典の心臓部に、縄文の爆発を打ち込んだんです。誰ひとり、傷つけずに。
📖 岡本太郎と太陽の塔
「芸術は爆発だ」の真意を太郎自身はこう語っています——うまくあること、売れること、心地よくあることを芸術は目指さなくていい。生命がその場で全力で放出されること、それだけが芸術だ、と。太陽の塔は万博テーマ「人類の進歩と調和」への公然たる異議でした。テクノロジーの祭典の中心に、原始の顔を持つ「反・進歩」の塔を置く。しかも会場設計の要である大屋根を貫通させる。主催者側の論理の内側に入り込み、その一番いい場所で、その論理を静かに無効化してみせた——見事なまでに平和的な破壊です。
政(まつりごと)という日本語
ここで、日本語のすごさに気づきます。政治の「政」——訓読みは「まつりごと」。祭り、ごと。
古代の共同体で、統治のいちばん大事な仕事は、収穫の余りをどう祭りで使い切るかの采配でした。神に捧げ、皆でごちそうを食べ、歌い、踊る。余剰の燃やし方を采配すること、それ自体が政治だった。日本語は、バタイユが理論化するずっと前から、その記憶を一つの訓読みの中に保存していたんです。
📖 ポトラッチと『贈与論』
北米先住民の「ポトラッチ」では、首長の威信は財を蓄えることではなく、祝宴でどれだけ気前よく与え尽くすかで決まりました。人類学者マルセル・モースは『贈与論』(1925)で、こうした「与えることが社会を編む」経済を描き、バタイユはここから普遍経済の構想を得ています。蓄積ではなく蕩尽が共同体の中心にある社会は、実在したのです。
花火——この国は、本質を知っていた
そして、日本のお家芸。花火です。
考えてみれば、あれはすごい行為です。膨大な時間と手間をかけ、職人が命の危険まで冒しながら、大金を仕込んで——一瞬で、夜空に散らす。何も残らない。持って帰れない。積み上がらない。
それをこの国の文化は「もったいない」と言わなかった。むしろ夏の夜の粋の極みとして、美徳として許してきた。祭りの夜空に散る大輪を見上げて、僕らは損得を忘れて、ただ「たまや」と声を上げる。蕩尽の本質は、理論より先に、この国の夏に根付いていたのかもしれません。
無駄なことこそ、聖なること
だから、こう言えると思うんです。計算できない。積み上がらない。スキルにもならない。履歴書に書けない。役に立たない。無駄でしかない——そういうことこそが、バタイユの言う蕩尽です。効率の世界から見て無価値であることが、欠陥じゃなく、本質。
そして、もう一歩だけ過激なことを言えば。極限まで丁寧に、緻密に、計算し尽くして、意図を尽くして積み上げたものを、最後に叩き壊すこと。それこそが運命の転換点であり、硬直した社会の、新しいスタート地点なのかもしれない。知らんけど。
📖 砂曼荼羅——積み上げて、壊すために
チベット仏教の僧侶たちは、色砂で何週間もかけて、息を呑むほど緻密な曼荼羅を描きます。そして完成した瞬間、儀式とともに、ためらいなく砂を払い消して川に流す。最初から、壊すために積み上げる。執着を手放すためのこの営みは、「緻密に積み上げたものを叩き壊すことが聖なる転換点になる」ことを、千年以上前から実践している例です。
祭りを忘れた時代
そして現代です。僕らの時代は、余りを燃やす場所を失った時代かもしれません。
余剰は投資に回り、複利で増え、また投資に回る。数字は増え続けるのに、どこでも燃えていない。祭りは「非効率」として削られ、余剰は誰の体も温めないまま、口座の中で膨らんでいく。バタイユの警告に従うなら——燃やされない余剰は、いつか必ず、破局の形で出口を探します。
だから、祭りをやっている
僕がJ-POP JAMという「祭り」を続けている理由の、いちばん深い層は、たぶんここです。
働く大人が、仕事で稼いだお金と時間の余りを、音楽という祭りに持ち寄って、若者の音と一緒に燃やす。それは浪費じゃありません。人類がいちばん長くやってきた、いちばん古い政です。
余りをどう燃やすかに、その共同体の品性が出る。
あなたの余りは、いま、どこで燃えていますか。
連載「世界をつくりなおす、7つの話」(全7話+補遺)
- 第1話 ひとりでは、わたしになれない
- 第2話 世界は、二つある
- 第3話 太陽は、くれすぎる(いま読んでいる話)
- 第4話 ふたつの3億円
- 第5話 測れたら、それは幸せじゃない
- 第6話 世界は、凸凹でできている
- 第7話 脱成長じゃなくて、新しい祭り
- 補遺 祭りで、飢餓はなくなるの?
次の話 → ふたつの3億円