天才は、蓄音機が発明した。

変なタイトルだと思われるかもしれません。でも、調べれば調べるほど、順番はこうとしか思えなくなってきたんです。天才がいて、それを記録するために蓄音機が生まれたんじゃない。蓄音機が生まれたから、「天才」という現象が生まれた。今日はその話をさせてください。

寿司屋には、天才がいない

きっかけは、寿司屋のことを考えていたときでした。

どんなに腕のいい寿司職人でも、一晩に握れる数には限りがあります。カウンターの席数も決まっている。だから「日本一の寿司職人」がいたとしても、その人が日本中の寿司需要を独り占めすることは、物理的にできません。二番目にうまい職人にも、三番目の職人にも、町の職人にも、ちゃんと客が回ってくる。腕の差は値段の差にはなっても、「一人だけが全部を持っていく」ことにはならないんです。

そして気づきました。音楽も、200年前まではずっと寿司屋だったんですよね。

どんな名歌手でも、声が届く範囲はホールの客席まで。今夜ウィーンで歌っている人は、同じ夜にパリでは歌えない。だから各地に、その土地で食べていける音楽家がちゃんといた。教会に、宮廷に、酒場に。音楽は長いあいだ、キャパシティの経済の中にあったわけです。

録音は、音楽の帳簿化だった

それを壊したのが、録音技術だったらしいんです。

蓄音機は1877年、エジソンの発明だと言われています。あの機械がやったことの本質は、「一回きりの演奏を、複製できる商品に変えること」でした。演奏という出来事が、レコードという在庫になった。僕はこれを、音楽の帳簿化と呼びたいんです。それまで帳簿に載らなかったもの——その夜、その場所で消えていた音——が、数えられて、積み上げられて、売買できるものになった。

すると、恐ろしいことが起きます。複製にはキャパシティの限界がないんです。一番人気の歌手のレコードは、100万枚でも1000万枚でも刷れる。聴く側からすれば、二番目にうまい歌手のレコードをわざわざ買う理由がない。だって、一番のやつが同じ値段で買えるんだから。

シカゴ大学のシャーウィン・ローゼンという経済学者が、1981年に「スーパースターの経済学」という論文でこの構造を説明したそうです。才能のほんのわずかな差が、所得の何千倍もの差になる。それは才能の差が大きいからではなく、複製技術が「一番」を無限に売れるようにしたからだ——と。勝者総取りは、人間の性質ではなく、技術が作った市場構造だったんですね。

📖 ひらく: スーパースターの経済学
Sherwin Rosen "The Economics of Superstars" (1981)。少数の個人が活動する市場の大部分を占め、巨額の所得を得る現象を分析した論文と言われています。ポイントは二つで、①才能は不完全にしか代替できない(二流を二人集めても一流一人にならない)、②技術が一人のパフォーマンスを低コストで大量の聴衆に届けてしまう。この二つが揃うと、わずかな才能差に需要が殺到して所得が桁違いに偏る。録音・放送・配信と、複製技術が進むほどこの偏りは強くなるのだそうです。

「天才」は、その市場が必要とした物語

ここからが本題です。

一人が全部を持っていく市場ができたとき、その一人には、それを正当化する物語が必要になります。「あの人は私たちとは違う生き物なんだ」という物語が。それが「天才」です。天才は稀少で、稀少なものには値段が付く。技なら稽古すれば誰でも近づけるけれど、天才は生まれつきだから、買い占めるしかない。

以前、「アートとテクノロジーは、もともと同じ言葉だった。」という記事で、18世紀に芸術と技術が分断されて、芸術がお金の商品になっていった話を書きました。「天才」という言葉の意味が今の形になったのも、ちょうど同じ頃らしいんです。

もともとローマの人たちにとって、ゲニウス(genius)は「全員に一人ずつ付いている守護霊」のことだったと言われています。生まれた瞬間から、誰にでも付いている。誕生日を祝うのは、もともと自分のゲニウスを祝う日だったんだとか。天才=ジーニアスは、特別な人間の呼び名ではなく、全員が持っているものの名前だったんです。

それが18世紀のどこかで、「ごく一部の人間だけに宿る、特別な資質」へと意味が反転した。全員に付いていた守護霊が、選ばれた数人の専売特許になった。芸術の商品化と、天才の稀少化と、そして少し遅れてやってくる録音技術。この流れは、どうも一続きに見えるんです。

発掘という言葉が、ずっと苦手でした

僕は平日はエンジニアとして働きながら、週末にJ-POP JAMというセッションイベントを主催しています。この世界にいると、「発掘」という言葉によく出会います。新人発掘オーディション。原石を発掘する。

正直に言うと、この言葉がずっと苦手でした。発掘というのは、「天才は最初から埋まっていて、探し当てるものだ」という前提の言葉です。掘る側と掘られる側がいて、掘られなかった大多数は、石ころだったことになる。でもそれって、スーパースター経済の側の言葉なんですよね。無限に複製できる市場は「一番」しか要らないから、探すんです。一人だけを。

でも僕がセッションの現場で見てきたのは、全然違う光景でした。昼間は普通に働いている人が、マイクを持って歌い出した瞬間に、場の空気が変わる。あれは「発掘」じゃないんです。掘り当てられたんじゃなくて、その場で開いた。ローマ人の言葉を借りるなら、その人のゲニウスが、その夜、その場所に降りてきた。僕には何度もそう見えました。

そしてライブという場は、面白いことに、いまだに寿司屋なんです。その場にいる人にしか届かない。複製できない。キャパシティの経済のまま、帳簿の外に残っている。録音が支配する世界の中で、全員のゲニウスがまだ生きていられる場所は、たぶんここです。

証明したいこと

誤解しないでほしいのですが、録音技術を恨んでいるわけではありません。僕自身、レコードやCDに人生を変えられた側の人間です。複製があったから、浜松の楽器が世界に届いたし、僕らは死んだ人の演奏をいまも聴ける。それは本当にすごいことです。

ただ、複製の経済が作った「天才は一握り」という物語を、事実だと思い込むのはやめませんか、という話なんです。あれは150年前に始まった、わりと新しい市場構造の副産物にすぎない。その前の何千年間、ゲニウスは全員に付いていた。

天才を発掘したいんじゃない。みんなが天才であることを証明したいんだ。

僕がやっていることは、全部この一文に向かっています。ライブという複製できない場所で、あなたのゲニウスが降りてくる夜を、一緒に作っていきましょう。