散り方こそが、作品だ。
夏の夜に花火を見上げながら、隣の子どもが「もったいない」と言ったのを聞いたことがあります。何ヶ月もかけて作った玉が、数秒で消えてしまう。たしかに、貯めることが正しくて、使い切ることはもったいない、という物差しで測れば、花火ほどもったいないものはありません。でも僕はあのとき、逆のことを考えていました。花火は、消えるためだけに作られている。そして、だからこそ美しい。散り方こそが、作品なんじゃないか、と。
今日は、この直感を大真面目に掘っていきます。物理と経済の話を経由しますが、最後はちゃんと音楽に帰ってきますので、付き合ってください。
渦は、流れの途中にしか現れない
前に、川の渦の話を書きました。渦を作っている水は一瞬ごとに流れ去って入れ替わっているのに、渦という形はそこに在り続ける、という話です。今日はその続きで、じゃあ渦はどういうときに現れるのか??という話をします。
答えは、意外なほどはっきりしているらしいんです。エネルギーが流れて、散っていく途中にだけ、現れる。
ノーベル賞を取ったプリゴジンという化学者が、こういう構造を「散逸構造」と名付けたそうです。散逸、つまりエネルギーが散らばって失われていく流れの中でこそ、渦や、台風や、ろうそくの炎のような「かたち」が生まれて保たれる。流れを止めたら、渦は消えます。台風は暖かい海からエネルギーが流れ込み、散っていく途中の形だし、生き物も、食べたものを熱として散らし続ける途中の形なんだとか。
学校で習うエントロピーの話では、「宇宙は散らかっていく一方で、秩序は散らかりに逆らって頑張っている」というイメージを持ちがちですよね??でもプリゴジンの話はそうじゃなくて、秩序は散らかりに逆らってではなく、散らかりを通じて存在している、ということらしい。散ることは、かたちの敵じゃなくて、かたちの燃料だった。花火は、このことを一番あからさまにやって見せてくれているだけなんです。
経済の本当の問題は、余りの使い方らしい
ここで、少し変わった経済学者の話をさせてください。バタイユというフランスの思想家は、普通の経済学と真逆のことを言ったそうです。普通の経済学は「足りないものを、どう手に入れるか」を考えます。でもバタイユは、生命にとっての本当の問題は不足じゃなくて過剰、つまり余ったエネルギーを、どう使い切るかだ、と言ったらしいんです。
太陽は見返りなしにエネルギーを注ぎ続けていて、生命はいつも使い切れないほどの過剰を抱えている。だから昔のどの文化にも、祭りや、供物や、贈り物や、芸術という「見返りを求めずに使い切る仕組み」があった。そしてバタイユの一番怖い指摘はここです。過剰は、消えてくれない。美しく使い切る道を用意しなければ、溜まりに溜まった過剰は、いずれ戦争のような最悪の形で爆発する、と言ったそうで。20世紀を生きた人の言葉だと思うと、ちょっと背筋が冷えます。
📖 ひらく:r>g——塞がれたダムの式
放流には、ノズルが要る
じゃあ、どうすればいいのか。溜め込んだものを、ただ決壊させればいいわけじゃありません。ダムの水をいっぺんに流したら、それはただの洪水です。花火が美しいのは、火薬をただ爆発させていないからです。玉の中の配置、開くタイミング、色の移り変わり。あれは散らし方に技を尽くした爆発です。放流には、ノズルが要る。散り方には、デザインが要る。
僕がライブや、セッションや、月に一度の祭りのような場を作り続けているのは、本当のことを言うと、これをやっているつもりなんです。働いて稼いだお金と時間とエネルギーを、音楽という一回きりの夜に変えて、美しく散らすためのノズル。録音しても残りきらない、その場にいた人の体にしか残らない形で、過剰を使い切る場所。もったいない??そのとおりです。もったいないことを、どれだけ美しくやれるかに、人の技と心意気が出るんだと思っています。
貯めることは、手段としては大事です。でも人生の作品性は、たぶん貯め方じゃなくて散らし方に宿ります。何にエネルギーを使い切ったか。誰のために燃えたか。どんな夜を打ち上げたか。
次の花火を、一緒に打ち上げましょう。夜空は、いつでも空いています。