飽きは、残差センサーである。
先日、ニュース系の音声番組で、画家の横尾忠則さんのインタビューを聞きました。90歳近くになっても新作を描き続けている人が、「飽きる」ということについて延々と語っている。それが、前回の記事(要約は、無料になった。)で書いた「残差」の話と、僕の中で音を立ててつながったので、今日はその話をさせてください。
「飽きるぐらい熱中したから、飽きる」
横尾さんは2024年の暮れに『飽きる美学』(実業之日本社)という本を出していて、インタビューもその話が中心でした。印象的だったのは、飽きることをまったく悪びれていないことです。むしろ、飽きるためには飽きるところまで熱中しないといけない、飽きは熱中の証明だ、という趣旨のことを語っていました。
これ、ふつうの感覚とは逆ですよね?? 僕たちは「飽きっぽい」を欠点として教わってきました。三日坊主、根気がない、続かない。飽きた自分を責めた経験は、誰にでもあると思います。
でも横尾さんの言い方だと、順番が逆なんです。浅くつまみ食いした人は、本当の意味では飽きることすらできない。対象を汲み尽くすところまで潜った人だけが、飽きに到達する。飽きは脱落の印ではなく、踏破の印だと。
飽きの正体は、残差切れ
前回書いたことを一行でおさらいすると、情報とは「予測を裏切った分=驚き」のことで、価値はモデルが写し取れない残差に宿る、という話でした。
この定義を使うと、飽きの正体がきれいに説明できてしまうんです。
何かに熱中しているとき、あなたの中では対象のモデルがどんどん精密になっていきます。次はこうなるだろう、こう弾けばこう鳴るだろう。上達とは予測が当たるようになることです。そして、モデルが対象を完全に写し取ってしまったら?? もう驚きは出てきません。残差ゼロ。情報量ゼロ。そのとき身体が発する報告が、あの「飽きた」という感覚なんだと思うんです。
つまり、飽きは、あなたがそこから汲み出せる驚きを汲み尽くしたことを知らせるセンサーです。 誤作動でも怠け心でもなく、正確な計測結果。だから浅い人が本当には飽きられない、という横尾さんの言い方は、情報の理屈から見てもそのまま正しいことになります。あの人は感覚だけで、理論の結論に先回りしている。
87年、やめていない
ここで大事なのは、横尾さんが「飽きたからやめた」わけではない、というところです。この方は少年時代から今日まで、80年以上にわたって絵をやめていない。飽きるたびに、描き方のほうを変えてきたんだそうです。作風の大転換を何度もやった人として有名ですが、本人の中ではあれは気まぐれではなく、飽き=残差切れのたびに、新しい残差の湧く場所へ掘り進んだ、ということなのだと思います。
今年、神戸の横尾忠則現代美術館で「連画の河」という展覧会が開かれていました(2026年5月〜8月)。「連画」というのは、俳句の連歌のように、前に描いた一枚を見て、そこから次の一枚を描き継いでいく形式だそうです。起点は少年時代を過ごした西脇の、同級生の記念写真。そこから《記憶の鎮魂歌》(1994) という絵が生まれ、また次が生まれ、川のように連なっていく。
この形式のすごさ、わかりますか?? 全体の完成図を先に決めることが、構造的にできないんです。次の一枚は、前の一枚を見てからしか描けない。つまり要約も設計図も禁じ手にして、残差だけを燃料に進む形式です。飽きのセンサーを頼りに川を下る仕組みを、この人は自分で発明して、まだ乗っている。
📖 ひらく: 出典について
見る人の数だけ、作品がある
インタビューでもう一つ、膝を打った話があります。横尾さんは、絵の意味を作者が決めることに関心がなくて、Aさんが見ればAさんの作品になる、という趣旨のことを語っていました。見る人が変われば、立ち上がる驚きも変わる。
これは、僕がこの連載で書いてきた「受け手はそれぞれ固有のフィルターである」という話と同じ構造です。作品を一つの正解に要約しない。解釈の残差を、受け手の数だけ開いておく。だからこの人の絵は、何十年経っても汲み尽くされないんでしょうね。
飽きたら、やめるな。変えろ。
まとめます。飽きは、あなたの熱中が本物だったことの証明であり、いまの掘り方ではもう驚きが出ない、という正確な報告です。だから飽きたときの選択肢は「やめる」ではありません。続け方を変える。 曲を変える、編成を変える、教える側に回る、連画のように前作から描き継ぐ。反復は続けたまま、反復の中身に差異を入れる。
同じことの繰り返しに見えて中身が毎回違う反復だけが、生き続けます。稽古も、バンドも、たぶん人生も。
飽きっぽいあなたへ。それは欠陥ではなくて、感度のいいセンサーを積んでいるということです。センサーの声を聞いて、掘る場所を変えながら、でもやめずに。一緒に、長い川を下っていきましょう。