叱った大人のほうが、病む。そういう話が、100年前の遠野に残っています。
5年ほど前に、「遊びが世界を変える」という趣旨の記事を書いたことがあります。あのときは勢いで書いた部分もあって、正直に言うと、自分でも半分くらいしか分かっていませんでした。最近、柳田國男の『遠野物語』を読み返していて、あの記事の続きにあたる話を見つけてしまったので、今日はその話をさせてください。
カクラサマという神様
『遠野物語』の第72話に、カクラサマという神様が出てくるんです。岩手の栃内という集落の、琴畑というところにあった木の座像だそうで。
この神様、村の子供たちのおもちゃにされているんです。川に投げ込まれたり、道を引きずり回されたり。おかげで顔はすっかり磨り減って、鼻も口もどこにあるか分からなくなっていたといいます。
普通に考えたら、罰当たりな話です。神様の像を川に放り込むんですから。ところがカクラサマは、子供たちには何もしない。祟るのは、別の相手なんです。
📖 ひらく: 『遠野物語』第72話のあらすじ
祟られるのは、子供を叱った大人なんです。「神様で遊ぶんじゃない」と戒めて遊びを止めさせた人が、かえって病んで寝込む。夢枕にカクラサマが立って、叱られるんだとか。
初めて読んだとき、ぞくっとしました。神様の側が、遊ばれることを望んでいる。そして、遊びを取り締まった側が病む。この話、書いた人たちは100年前にいったい何を分かっていたんでしょうか??
遊ばれている神様は、生きている
僕なりの読み方はこうです。
川に投げ込まれ、引きずり回され、顔が磨り減っていくカクラサマは、毎日子供たちに触られている。つまり、関係の中にいる。かたや、立派なお堂に祀り上げられて、誰も気軽に触れなくなった神様を想像してみてください。丁重に扱われてはいるけれど、日々の暮らしからは切り離されている。
どちらが「生きている」神様なのか。遠野の人たちの答えは、はっきりしていたんだと思います。磨り減ることは、死ぬことじゃない。触られなくなることが、死ぬことなんです。
遊びは、文化より古いらしい
ホイジンガというオランダの歴史家が、『ホモ・ルーデンス』という本で「遊びは文化よりも古い」と言ったそうです。文化の中に遊びがあるのではなくて、遊びの中から祭りも法律も詩も競技も生まれてきた、という順番らしいんですね。
ここで面白いのは、その後の流れです。遊びからルールが生まれる。ルールはやがて制度になる。そして制度は、いつからか、自分を生んだ遊びのほうを取り締まりはじめる。「ふざけるな」「真面目にやれ」と。
文化人類学のほうでも、祭りや道化のような「秩序を一時的にひっくり返す時間」が、共同体が硬直して死んでしまわないための換気口として働いている、という議論があるそうです。無礼講は、秩序の敵ではなくて、秩序の呼吸だった。
📖 ひらく: ホイジンガ・山口昌男・ターナー
叱った瞬間に、死ぬものがある
僕はサラリーマン時代に、これを組織の中で何度も見ました。
新しいことは、だいたい遊びの顔をして始まるんです。業務と関係ない実験、雑談から生まれた思いつき、就業時間の隅でこっそり動いているプロジェクト。それを「遊んでる暇があったら」と叱った瞬間に、何かが死ぬ。しかも面白いのは、死んだ後にいちばん困るのが、叱った側だということです。新しいものが出てこなくなった組織で、真っ先に苦しむのは管理する側なんですね。カクラサマの祟りは、呪いというより、ただの因果関係なのかもしれません。
音楽の現場でも同じです。セッションというのは、真剣な遊びです。上手いかどうかより、遊べるかどうか。進行を「正しく」守らせようとする人が場を仕切りはじめると、音はきれいに揃って、そして死んでいく。逆に、誰かがルールの縁で少しふざけた瞬間に、場全体が息を吹き返すことがある。あれは何度体験しても不思議です。
2021年の自分への返事
「遊びが世界を変える」と書いたとき、僕はそれを、遊びの側の効能の話として書いていました。遊べば創造的になれる、というような。
でも遠野の話は、もう一段怖いことを言っています。遊びを叱ると、叱ったほうが病む。 個人も、組織も、たぶん社会も。遊びは「あったほうがいいもの」ではなくて、止めると系全体が病む、循環の一部なんです。
だから、僕たちの作る場は、カクラサマの側に立ちたいと思っています。祀り上げられて誰も触れない立派な何かになるより、引きずり回されて顔が磨り減るくらい、遊ばれるほうがいい。磨り減った分だけ、生きている証拠です。
一緒に、遊んでいきましょう。