Hiroshi Yoshida
2016-11-04
自分のスタイルを見つけるまでには誰もがたくさんのアーティストの真似をしていくものです。偉大な先人たち、圧倒的なオリジナリティを持ったアーティストでも、何かに大きな影響を受けて、真似して成長してきたんだ、というお話し。
個性やオリジナリティは、情報が溢れかえる中で差別化する意味では必要かもしれません。でもあくまで本質的な部分で音楽として良いか、感動できるかはまた別次元の話。
以前にもクラシックの世界の話をしましたが、古典的なクラシックの世界ではある意味で、今でも昔の演奏を再現しようと試みたりしている人たちがいて、それでも音楽としてはとても感動的なものなわけです。
そこにオリジナリティとか必要ですか?感動できる、ってことが一番大切じゃないですか?
最終的には、個性ばかりでとっつきとして注目を浴びやすいだけではファンは残っていかないと思います。音楽としての本質を突き詰める上では、なぜ偉大な先人たちの音楽は感動をもたらすのか?そこを真似し続けていく姿勢も必要なわけです。
ただ、ただのモノマネだなあ、と思われてしまうと興醒めしてしまうリスナーがいるのも事実。その辺は
”本質をマネできている”
のと、
”表面的なモノマネで終わっている”
ので、大いに違いが出ると思っています。
コーラスの仕事をやりたい、というような人は特に、本人の歌声のニュアンスに限りなく近づける、というようなスキルが必ず必要になります。
そういう意味では、臨機応変に歌い方を調節したりするスキルが必要なので、いろんな声のモノマネができる器用さは必要です。
人間的にも、技術的にも、いろんな場面に適応する柔軟性が必要ということですね。
声というのは、決まった使いかたしかしないと固まってしまうものです。喉を痛めてしまうのも、本当はもっと違う筋肉の使い方があるのに、決まった使い方しかしないために無理が出て痛めてしまうというようなことが起こります。
少しおかしな声や、おどろおどろしいような声も、実は声帯周りの筋肉を目覚めさせていく上で必要なんですね。それによっていろいろな声の可能性が見えてきます。
だから、聞いた声をそのまま真似する、といっても普通の人は普段からよく使う筋肉の範疇でしか真似できないから上手くいかない。大人は特に固まってしまっているからそうなるんです。
ただひたすら好きな歌手の真似をしようとするより、声の可能性を広げていくトレーニングを並行しながらやることで、新しい可能性がみえてきますよ。