最近、エントロピーの話を読んでいて、ふと腑に落ちたことがある。
コーヒーにミルクを落とす。最初は白い点として、そこに「ある」ように見える。でも数秒後には広がって、溶けて、どこにあったかわからなくなる。
あの「点」は何だったのか。
ミルクがあって、コーヒーがあって、その境界があるから「点」として見えた。でもその境界は最初から一時的なもので、やがて溶けて消える運命だった。
「自分」もそうなんじゃないか
僕らは「自分」という存在が確固としてあると思っている。名前があって、体があって、考えがあって、ここにいる。
でも、よく考えると、それもミルクの点と同じなんじゃないか。
親がいて、その親にも親がいて、関わってきた人がいて、食べたものがあって、読んだ本があって、住んでいる場所があって。その全部が重なり合った交差点に、たまたま「自分」という形が現れている。
仏教では「縁起」と呼ぶらしい。これがあるから、あれがある。単独で存在するものは何もない。
境界は幻想かもしれない
ミルクの点が「ここにある」と言えたのは、境界があったから。でもその境界は、見方を変えれば最初からなかった。ミルクの分子とコーヒーの分子が混ざり合う、そのプロセスの一瞬を切り取って「点」と呼んでいただけ。
「自分」と「他人」の境界も、似たようなものかもしれない。
皮膚の内側が自分で、外側が世界?でも呼吸するたびに空気は入れ替わるし、食べたものは体になるし、話した言葉は相手の中に入っていく。どこからが自分で、どこからが世界なのか、本当は曖昧なんだ。
Thank you は Think you
最近、「ありがとう」の語源を調べていた。
英語のThankはThinkとほぼ同じ語源らしい。つまり Thank you は Think you。「あなたのことを思っている」。
日本語の「有難い」は、あることが難しい、めったにない、という意味。存在していることへの驚き。
どちらも、存在を認めている。
そして、関係性の交差点として存在している僕らにとって、誰かを思うことは、自分の存在も強くすることなんだと思う。
自分を形作っている縁を認める。意識を向ける。「ここにいるね」と思う。それが巡り巡って、交差点である自分自身を強くする。
感謝が力を持つと言われる理由は、こういうことなのかもしれない。
何が変わるわけでもないけど
この考え方を知ったからといって、明日から人生が劇的に変わるわけじゃない。
でも、なんとなく、孤独の感じ方が変わった気がする。一人でいても、無数の縁の中にいる。境界は幻想で、本当は全部つながっている。
追記:仏教では2500年前からこういうことを言っていたらしい。最近の物理学も似たようなことを言い始めている。古い智慧と新しい科学が同じ場所に辿り着くの、面白い。