アボリジニの「ドリームタイム」が教える、時間を超える世界観
砂漠に響く、見えない歌
赤い大地が地平線まで続く。太陽が沈みかけた空は、オレンジから紫へとグラデーションを描いている。風が運んでくるのは、砂の匂いと、遠くで誰かが歌っている声のような気配。オーストラリア中央部の砂漠地帯では、数万年前から変わらない風景が今も静かに息づいている。
アボリジニの人々は、この大地を「ソングライン」と呼ばれる目に見えない歌の道で捉えてきた。山も川も岩も、すべてが歌であり、物語であり、祖先の記憶だという。彼らにとって世界は、過去・現在・未来が同時に存在する「ドリームタイム」という時間感覚の中にある。
「時間は直線ではない」という感覚
私たちは普段、時間を矢印のように捉えている。過去から現在へ、そして未来へと一方向に流れていくもの。だが、アボリジニの世界観では、時間は円環的で、すべてが今ここに同時に存在している。
「ドリームタイム(Dreamtime)」、より正確には「ドリーミング(The Dreaming)」と呼ばれるこの概念は、単なる神話や昔話ではない。彼らにとっては、今も生きている現実そのものだ。祖先の精霊が大地を創造した「創造の時」と「今この瞬間」は、実は同じ時間軸に存在している。
なお、「ドリームタイム」という言葉は、もともと西洋の人類学者による訳語で、アボリジニの人々自身はワルピリ語の「ジュクルパ(Jukurrpa)」など、それぞれの言語で固有の言葉を持っている。「夢」とは関係のない、はるかに深い概念だ。
人類学者のW.E.H.スタナーは、これを「エヴリウェン(everywhen)」——「いつでも、どこでも存在するもの」と表現した。過去の出来事が、今もなお続いているという感覚。それは、記憶としてではなく、生きた力として大地に刻まれている。
なぜ「歌」で世界を記憶するのか
興味深いのは、アボリジニが地理的な知識を「歌」として伝承してきたことだ。ソングラインと呼ばれるこのシステムは、単なる地図ではない。歌の順番通りに歩けば、水場や聖地、危険な場所を正確に辿ることができる。つまり、彼らは歌を歌いながら大陸を横断してきたのだ。
認知科学の研究によれば、人間の記憶は物語や韻律と結びついたとき、驚くほど長期間保持される。文字を持たない文化が口承で何千年もの知識を継承できるのは、この「歌」という形式の力によるところが大きい。
アボリジニの「歌う地図」は、GPSよりも古く、しかし決して時代遅れではない。それはむしろ、人間の記憶のあり方そのものに寄り添った、極めて合理的なシステムだったのかもしれない。
すべては「つながっている」という世界観
ドリームタイムの思想で最も印象的なのは、人間と自然、生者と死者、物質と精神のあいだに、明確な境界線を引かないことだ。
岩は単なる石ころではなく、祖先の化身であり、物語の舞台であり、聖なる存在でもある。川は水が流れているだけではなく、虹蛇(レインボー・サーペント)という創造神の化身として、今も大地にエネルギーを与え続けている。
この「すべてがつながっている」という感覚は、現代の生態学や量子物理学が示唆する世界観とも奇妙に共鳴する。すべての存在は互いに影響を与え合い、独立した「個」として存在しているわけではない。関係性の網の目の中で、はじめて意味を持つ。
環境心理学者のグレン・アルブレヒトは、「ソラスタルジア(solastalgia)」という概念を提唱した。これは、故郷の環境が変化することで感じる喪失感を指す。アボリジニにとって、大地の破壊は単なる自然破壊ではなく、祖先の記憶や物語そのものが消えていくことを意味する。それは、自己のアイデンティティの一部が失われることに等しい。
私たちが失った「場所の記憶」
現代人の多くは、場所に対する記憶を持たない。引っ越しを繰り返し、地図アプリに頼り、風景はスマホの画面越しに消費される。どこにいても同じコンビニがあり、同じチェーン店があり、場所の個性は均質化されていく。
だが、ふとした瞬間に思い出す。子どもの頃に遊んだ公園の木の匂い。祖父母の家の廊下を歩いたときの床のきしむ音。初めて恋をした場所の、夕暮れの光の色。
それは単なるノスタルジーではなく、「場所」と「記憶」と「自分」が一体になっていた感覚の名残なのかもしれない。アボリジニのドリームタイムは、その感覚を文化全体で共有し、何万年も保ち続けてきた世界観だ。
なお、ここで紹介したのはアボリジニ文化のごく一面にすぎない。オーストラリアの先住民は250以上の言語グループを持ち、それぞれが独自の物語と知識体系を受け継いでいる。
「今ここ」にすべてが宿る
ドリームタイムの思想には、瞑想やマインドフルネスと通じるものがある。過去を悔やみ、未来を憂えるのではなく、「今この瞬間」にすべてが存在しているという感覚。
彼らにとって、儀式や歌は過去の再現ではなく、創造の力を「今ここ」に呼び起こす行為だ。祖先の物語を語ることは、その物語を再び生きることであり、大地に刻まれた記憶を更新し続けることでもある。
私たちも、自分なりの「ソングライン」を持つことができるかもしれない。毎朝歩く道、よく通うカフェ、季節ごとに訪れる場所。それらを意識的に記憶し、自分だけの物語として紡いでいくこと。
場所は、ただそこにあるのではない。私たちがそこに意味を与え、記憶を重ねることで、はじめて「場所」になる。
オチ
アボリジニの長老が、ある人類学者にこう言ったという。
「あなたたちは土地を所有できると思っている。だが本当は、土地があなたたちを所有しているんだよ」
所有するのではなく、所有される。支配するのではなく、属する。ドリームタイムが教えるのは、そんな逆転の視点なのかもしれない。