「音楽って、20世紀初頭で完成されてるじゃないですか?」
昔、教員向けの研修プログラムを作っている会社から、音楽ワークショップをやってほしいと頼まれたことがあります。打ち合わせに行くと、主催の方が開口一番、この前提で話し始めました。音楽はもう完成しているものだから、それをどう分かりやすく先生たちに伝えるか、という話です。
僕は、話を聞かずに帰りました。
そのときは、ただ体が受け付けなかっただけです。でも何年も経ってから、あの一言のことを時々思い出すようになりました。そして最近、気づいたことがあります。
あの人は、嘘をついていなかったんです。
学校の音楽の教科書が教える理論——機能和声と呼ばれる、あのコードの文法——は、ドビュッシーやシェーンベルクのあたりで記述が終わっている、と言われています。教科書の側から音楽の歴史を眺めると、たしかに20世紀初頭で「完成」しているように見える。あの人の視界は、正確だったんです。教科書に映る範囲では。
でも、20世紀に生きていた音楽は、どこにあったか。ジャズ。ブルース。ロック。ヒップホップ。クラブカルチャー。全部、学校の外です。楽譜ではなくレコードで、教室ではなくバーやガレージや路上で、先生からではなく先輩の手つきから、身体から身体へ受け渡されてきた音楽たち。教科書はそれを書き取れなかった。だから、あの人の視界には最初から入っていなかった。
考えてみれば不思議な視差です。20世紀は、録音技術が生まれて、音楽が歴史上いちばん爆発的に増殖した100年だったはずなんです。その同じ100年を、片方の世界は「完成のあと」と呼び、もう片方の世界は現在進行形で生きていた。同じ時間を見ているのに、器が違うと、見える景色がここまで違う。
つまりあの一言は、音楽についての発言ではなかったんだと思います。あれは、教育という器の告白だったんです。カリキュラムというものは、完結して、整理されて、採点できるようになったコーパスしか扱えない。だから教育は、生きて動いているものを「まだ完成していないもの」として視界の外に置くしかない。教える人を教える場——現場から二段階離れた場所で、あの言葉が発されたことも、いま思えば構図として綺麗すぎるくらいでした。
あの日、席を立った自分の判断を、いまも正しかったとは言い切りません。ちゃんと話せば何かが変わったのかもしれない。ただ、あのとき体が拒否したものが何だったのか、言葉にできるまでに、ずいぶん長い時間がかかった、という話です。
音楽は、完成していません。今夜もどこかで、教科書に載らない場所で、更新されています。