ビジネスとは、暇の欠如である。

悪口ではありません。語源の話です。僕は「ビジネス」と「そうでないもの」の境界線をしょっちゅう行き来している人間です。それで最近、そもそも商売って何なんだ?? ビジネスって何なんだ?? と言葉の根っこを掘っていったら、思いがけない場所に出たので、今日はその報告です。

「商人」は、国を失った人たちだった——かもしれない

まず「商」という字から。実はこれ、古代中国の殷王朝の「商」と同じ字なんです。殷は自分たちの国を「商」と呼んでいたそうで、その商王朝が周に滅ぼされたあと、土地を失った商の遺民たちが各地を渡り歩き、物の売り買いで生計を立てるしかなくなった。それで「商の人」=売り買いする人、になった——という説が、昔からよく語られています。

俗説の域を出ない話らしく、研究者の間では異論もあるそうです。でも、もし半分でも本当なら、これはすごい話だと思うんです。商とは、国を失った者の生きる技として始まったことになる。土地を持つ者は場所に根を張って生き、物を作る者は技に根を張って生きる。そのどちらも失った人に最後に残ったのが、場所と場所の「あいだ」を行き来することだった。

商人は、点ではなく線の職業

この「あいだ」というのが、商の本質だと思っています。

商人は、何も生産しません。ではなぜ利益が出るのか。Aの土地で安いものがBの土地では高い——その差を見つけて、あいだを繋ぐからです。空間の差、時間の差、情報の差。農家や職人が世界に「点」を作る仕事だとしたら、商人は点と点のあいだに「線」を引く仕事です。何も作っていないように見えて、線がなければ点は孤立して死んでしまう。

ちなみに、割り算の答えのことを「商」と言いますよね。商という字には「はかる」という意味もあって(商量、商談の商)、値踏みする者、差を測る者という顔が、最初から字に入っているんだそうです。

📖 ひらく: 「あいだ」に追われた人たち——ミドルマン・マイノリティ
歴史を見ると、同じ構造が何度も繰り返されていると言われています。中世ヨーロッパのユダヤの人々は、土地の所有も職人組合(ギルド)への加入も法的に禁じられていて、農と工から締め出された結果、商業や金融という「あいだ」の仕事に押し出されました。いつ追放されるか分からないから、資産は没収されない知識や教養に寄せるしかない。詩人ハイネは聖典を「持ち運べる祖国」と呼んだそうです。同じパターンは華僑やアルメニア商人にも見られ、社会学では「ミドルマン・マイノリティ」と呼ばれているとか。大事なのは順序です。締め出しの構造が先にあって、職業が後から来た。「あの人たちは商売がうまい」という気質の話に回収した瞬間、この話は差別の定型文に転びます。

ビジネスの語源は、身も蓋もない

次に「ビジネス」。こちらは語源が拍子抜けするほどシンプルで、busy-ness、「忙しいこと」です。状態の名前でしかない。

でも面白いのはここからで、古代ローマ人は商売や実務のことを negotium(ネゴティウム) と呼んだそうです。これは nec + otium、直訳すると「otium(閑暇)ではないもの」。オティウムというのは、ただの暇つぶしではなくて、政治や実務から自由になって、考えたり、語り合ったり、学んだりする時間のことだったといいます。

ギリシャ語も同じ作りで、仕事や多忙は ascholia、「scholē(スコレー)の欠如」。そしてこのスコレーが、school——学校——の語源なんだそうです。学校とは、もともと「暇」のことだった。

つまり古代人の世界では、閑暇——考えること、語ること、美に触れること——のほうが正の項で、ビジネスはその「欠如」としてしか名指されていなかったんです。仕事に名前がなくて、仕事じゃない時間のほうに名前があった。

この2000年で、符号が反転した

現代は、完全に逆ですよね。仕事がデフォルトで、暇のほうが「オフ」——仕事の否定形として名指される側です。「お休みの日は何してるんですか??」という質問の前提には、人生の正味は労働で、それ以外は余白だという世界観が入っている。

どちらが正しいという話ではないんです。ただ、どちらを原点に置くかが、この2000年でひっくり返ったという事実は、覚えておく価値があると思っています。僕らが「当たり前」だと思っている符号の向きは、歴史のデフォルト設定ではない。

アリストテレスの線引き——限度のある商と、限度なき商

最後に、一番背筋が伸びた話を。

アリストテレスは『政治学』で、財の獲得を二つに分けたそうです。一つは家の営み——オイコノミア。生活に必要なものを手に入れる活動で、これはエコノミー(経済)の語源です。大事なのは、オイコノミアには限度があること。必要が満たされたら、そこで終わる。

もう一つが、お金でお金を殖やすための術——クレマティスティケーと呼ばれるもの。こちらは限度がない。いくら貯めても終わりが来ない。アリストテレスはこれを自然に反すると考えて、とりわけ利子を取ることを「お金が子を産む」ものとして、もっとも不自然な取得術だと批判したそうです。

2300年前に、商売そのものではなく、限度を失った商売だけが問題なのだと、すでに言われていたわけです。

商は悪ではない。限度を失った商だけが、ダムになる

まとめます。商とは、失った者があいだを繋いで生きる技。ビジネスとは、語源の上では「閑暇の欠如」でしかないもの。そして商には、必要が満ちれば終わる商と、終わりのない商の二種類がある。

僕は商売を憎んでいません。あいだを繋ぐ仕事には、点を作る仕事と同じだけの尊さがあると思っています。ただ、限度を失った商——殖やすこと自体が目的になって、閑暇も、美も、人も、全部そのための手段に繰り込んでいく商——だけは、水の出口のないダムのように、どこかで必ず決壊する。

だから僕が考えたいのは、商をやめることではなくて、限度のある商を、閑暇を原点に置く世界観の上で営めるかということです。スコレーの側に足場を置いたまま、ネゴティウムを道具として使う。売上ではなく「足りた」で終われる商い。そういうものを、これから小さく作って、確かめていくつもりです。

あなたの仕事は、どちらの商でしょうか?? そして最後に暇——考えるための時間——を持ったのは、いつでしたか。