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『プロのクオリティ』はもはや存在しない。

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Hiroshi Yoshida

2021-2-18

プロのクオリティを目指して日々頑張っているクリエイターがいるでしょうし、それは素晴らしいことですが、気をつけておかなければいけないのは何をもってクオリティなのか?ということで。

魅力さえあれば、完成度は問題ではない。

本末転倒なのかわかりませんが、高いレベルのものを制作しようと意気込みすぎて、完成度、完璧に近いものであっと言わせたい!と頑張る人は多いのですが

大切なのはそれが受け入れられるかどうかであって、完成度が高ければ売れる、ということはまずありません。

それはプロ論としてもよく言っていることで、プロとはあくまで『お客様に喜んでもらえる仕事をしてお金をいただく』人のことであって、完成度が高いものを提供する事とイコールではありません。もちろん、お客様に求められる完成度を100パーセント満たしているということは当たり前ですが。

つまりクオリティの基準はお客様側にある。

そこを勘違いすると、技術は高いのにお金にならない、知られることもなく、いつまでも誰にも認知さえされない、ということになりえて、実際そういう人を僕はたくさん見てきました。

そして僕自身もわりとそういう世界を経てきた人間だと思うので痛いほど気持ちはよくわかるし、自分の経験から言ってもそこはいまだに葛藤がある部分です。

クオリティの高いものを人々が求めているとは限らない。

例えば、毎日高級レストランばかり行きますか?そしてそれこそが最高の料理でそれだけしか食べる価値のない料理ですか?

あなたがどうしても高級レストランの料理を出したい、それしか興味もないし、それがお金にならないならそれでも良い。というなら10年かけて修行したらよいと思います。それはそれで素晴らしいことだと思いますので。

しかし、そういう風に言う人も結局今までの狭い価値観の中での自分の思い込みでそういう指向になっていたり、たまたまその辺の食堂の料理のおいしさを知らないだけだったり、偏見を持っていたり、たったそれだけのことで自分の世界を狭めているだけだったりします。

僕も昔はとても狭い、自分の信じる音楽以外はダメ、みたいな極端な考えを持っていました。しかし、そうやって活動していたときには僕は大した実績も出せず、何より基準が厳しすぎて作品を出すことができず、もちろん知られることもありませんでした。

逆に、職業音楽家としての仕事をご依頼いただけるようになってから、そのフィールドでなんのこだわりもなく全力でやれることをやったら評価されて、今に至ります。

もちろん、それがすべてではないし、信じるものをもっと僕が追究すべきだったのかもしれないし、向き不向きがあったのかもしれないけど、一つ僕が自信をもって言えるのは、**結果として人に受け入れてもらえるほうが、自分のこだわりにしがみついて受け入れてもらえないよりは幸せ。**という現実です。

とらえ方によってはそれを、あいつは魂を売ったとかいう風に思う人もいるでしょうね。しかしはっきりと、僕は自分の人生を振り返ったときに、受け入れてもらえる、必要とされているほうが幸せだと言い切れます。

それは経験しないとわからないことだし、それも結局価値観の違い、と言われればそれまでですが、人間の本質を考えたときに結局それが幸せだねとなるパターンのほうが多いのでは?と思っています。

そしてそれは心の師匠的なアーティストもおっしゃっていたことですが、自分のやりたいことと、みんなの求めることの間をずっと狙っていけば幸せ、ということではないかと思います。

どちらかだけに偏るとおそらくどちらかの心が離れていきます。だからその世界と自分との境目、どちらも幸せになる方法を探し続ける。それこそがある意味、あらゆることの指針になる考え方ではないでしょうか。