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”音楽を習う”ことの弊害もある?

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Hiroshi Yoshida

2017-09-18

レッスンを通してたくさんの人と接してきて、いろいろと習ってきている人も見た上で思うことですが、習うということがむしろ偏った価値観を育む結果になり、自信を失ってしまうパターンもあると感じています。

正解がない芸術というものにどれだけ真摯に向き合っているのか?

特定のスタイル、価値観に当てはめていく上で、こうするのが正しい、ということはあり得ると思いますが、それは芸術、人の心を捉えるために必ずしも必要なものかどうかはわかりません。

ただ、先人が作り上げた特定の音楽を聞いて感動した人たちが、それを真似しようとしていろいろなことを試みた結果、特定のスタイル、様式になっていく。その中でなんらかのオリジナリティを加えていき、時には突然変異的に圧倒的に新しいものが生まれたりして文化は発展してきた。

誰もがこれが絶対、ということは知らないけれど、何かを成し遂げた、圧倒的な魅力をもったアーティストに共通しているのは、”圧倒的にやってきた。”ということではないかと思います。

それはどんなスタイルでもいい。たまたまそれしか知らなかったからそれをやってきた、ということでもいい。ただひたすらやり続けて、放ち続けたからこそ、一人、また一人と共感を生み出して、大きくなっていった。

いつでも言っていることですが、この世界のルール、当たり前の常識、文化を作っているのは、”圧倒的に行動してきた人”なんです。

それが正しいか間違ってるかじゃない。行動し続けた人が、やがて力を持ち、その結果誰かを動かすようになり、そこから文化が生まれていく。

その行動し続ける人を”あんなやり方はダメだ”とか、何にもやらない人が攻撃するパターンはよくある話。先に行かれてしまうのが怖いという本能のあらわれでしょうか。

そんな意味で、なんらかの圧倒的な行動を続けて実績を出した人は総じて誰かの勇気ある行動を否定したりはしないものだと思います。なぜなら自分も同じようなことをずっと繰り返しているから。

レッスンによって自信を失うことは一番無意味。

この世界で一番大切なこと、それは自信、だといっても過言ではないくらい、自信がなければなんの行動もできません。

だから僕が一番気をつけているのは、自信がないから人前に出るのはやめとこう、みたいにマイナスにならないようにすること。だからJ-POP JAMもあるし、積極的に世の中に自分を発信することをやめないようにアドバイスしてます。

正解を決めるのは先生じゃない。それを一人でもいいと言ってくれる人がいればそれこそが正解。その時に本当にアーティストはやっててよかったと思えるのだから。それさえあればずっと続けていけるし、本当にそう思ってくれる人がいればお金を出してライブにきてくれるのだから。

本当の芸術の本質はそこにはない、という価値観もあるし、一生かけて追求すべきという原理主義者もいるでしょう。世間に媚びるようなのは芸術じゃないとか。

それで本当に幸せならそれでいいと思うし、死んだ後に誰かが評価してくれるという奇跡を願うのもいいかもしれない。

ただ僕も、かなりマニアックなアート志向のこともやってきて、商業的なポップスにも関わってきて、どちらについても言えることは、その世界の一線で活躍している人は圧倒的に行動しているし、圧倒的にこだわっている。ジャンルの良し悪しがあるんじゃなくて、その行動の質と量の差があるだけだということ。

音楽通ぶった人たちが至高とするような音楽と、本当に後世に残っていくようなポップスと、レベルの違いや、そこに注がれたエネルギーの差は全くない。僕はそれを身をもってわかったので、そういうエネルギーレベルの高い人は分け隔てなくリスペクトできる。

どれだけやったか?やり続けてきたか?それが問われるだけだ、ということだと思ってます。

だから、自信は自発的な行動によって一つづつ積み上げていくしかない。時間はかかるでしょう。でもだからこそ価値があるものができる。それだけは普遍的な真実だと思って居ます。