Hiroshi Yoshida
2018-12-02
先日、西野カナさんの作詞手法が、”コンセプトを決めて、友人などにリサーチし、それを歌詞に落とし込む”という手法だとテレビで明かしたことから、それを批判して煽るような記事がすこしバズっていたようなので、改めてこれについて考えてみました。
芸術は特に神格化されすぎていると常々感じます。音楽の才能は特別に与えられるようなもので、凡人には到底できないとか。自分にはセンスがないからとてもわからないとか。デザインとアートは違うとか。とにかくエモーションだとか。
しかし、その制作のプロセスはほとんどのものが作られていく過程と全く同じです。でも何かを作り上げるためにあらゆる努力をしてきた人なら誰もがわかってくれると思いますが、音楽を作るプロセスも結局、
そんなことの繰り返し。神様から与えられたインスピレーション!!みたいなものは、それをずーっとうーんうーんと唸りながら作っている時に、ふっと散歩にでかけたらぱっと湧いてくる、つまり脳みそが勝手に情報を整理してくれた時に何かが繋がる、みたいなものだと僕は思っています。
何かの音楽を聞いた時に、これは素晴らしいと感じることについてはいまだに僕も謎です。なぜこのメロディーがいいのか?なぜこの歌詞がいいのか?後付けでいろいろ理由をつけることもできるかもしれないけど、やっぱり根本は神秘的で、それこそまさに神の言葉のようなものかと思いますが
だから我々はいまだその神の言葉の周りで、ああでもないこうでもない、と言いつつ無数の組み合わせを試行錯誤するしかない存在なのだと思います。
西野カナさんの話だったので自分が関わった経験から言うと、僕が一連の西野カナ作品に関わって学んだことはまさにその試行錯誤の密度と量。人に評価を受けるようなものを作るためには、これだけの熱量とエネルギーを注がなければいけないのか、ということを身をもって学んだ仕事でした。
正直いって、自分はシンガーソングライターとしてオリジナルを作って歌ったりしてきたけど、一曲のためにこれだけ時間と労力を注いでこれたか?と考えたらできていなかったかもと思うほどに、あらゆるアイデアの試行錯誤から完成されていくものでした。今でも僕の根本になっているし、それを学べたことにとても感謝しています。レッスンでもよく言ってますね。
とはいえ、結局一般的に音楽や芸術は特別なもの、神秘的なものというイメージを持たれているのであれば、ある意味その夢を壊さないように”あれはふとした瞬間に降りてきたんです”とか言っておいた方が良かったのかもしれませんね。でもそれじゃTV的に全く面白くないですね(笑)実際そういう風に振舞っているアーティストもたくさんいると思っています。
僕は、 才能ある音楽家は意識しているにしろ、していないにしろ、マーケティング的な思考が頭のどこかで働いていると思ってます。
具体的に言えば、今この時代でどんな音楽が流行ってて、どういう人たちがどういうことを考えてて、そういう人たちにこういうことを言えばきっと刺さるんじゃないか?みたいな思考が自然とできる。そういう人しか結局残らないと思ってます。それをマーケティングだと言えばとてもビジネスライクですが、それこそクラシックの作家だって、その時代のスタイルで、貴族に受け入れられるような音楽性を意識して作っていたものが、結果として今まで残ったというだけ。それを誰よりもうまくやり、さらに独自のテイストを付け加えたような人たちが今まで残っているだけです。
音楽に値段をつけて売っている人たちなら誰もが、お客さんの姿を想定するのが当たり前。そうじゃないなら売らないでいいはずだし。お客さんを想定しないで売りに出してるのなら、それは本当にギャンブルか、思い出づくりか、本当に何も考えてないか。それでたまたまうまく行く人も宝くじ以下の確率でいるのかもしれません。でも確実に長続きしないでしょう。それはつまり、 生き残れないことを意味している。
生き残れなかったら、名作を生み出すチャンスも失い、誰かに聞いてもらえるチャンスも失う。そうやってたくさん生き残るきっかけを得たアーティストが、たくさんの人に評価されて、後世まで残って行くのだと思います。
僕はどんなことから生まれたアイデアでも、創作のために使えるものなら全部使えばいいと思います。でも、多くの人が音楽は心のそこから湧き出るものであってほしい、という理想をもっているのは事実。売れることを優先しすぎて、全く心が入っていないようなものになったら批判を受けても仕方がないし、そもそもそんなもの売れないと思うんです。
普通に生きてれば、いろんな情報が入ってくるし、その感覚を鋭敏に感じながら作品に落とし込むのがアーティストの役割なら、同じ時代、同じ場所に生きる人たちに向けたマーケティング的な思考が入りこんでくる方が自然だと僕は思います。