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中二病は芸術家のはじまり。

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Hiroshi Yoshida

2017-03-28

中二病っていう言葉が使われだしたのはネットがだいぶ普及してからでしょうかね。少なくとも僕が中二の時にはなかった言葉ですが、中二病っていうのはそれはそれは古くからある病でして。

思春期に背伸びをするエネルギーこそが、世界を変える原動力。

僕も家にこもって暗い詩を書いたり、大声でギターをかき鳴らして歌ったり、絵を書いたりしていたものですが、すべて今につながってます。

運が良かったのか、思い込みが人一倍激しかったのか、無駄に根拠もない自信があったのか。そのすべてだと思いますが、今でもそれを職業として生きて行くことができています。

というより、そうすることでしか生きられなかった、という部分も多大にありましてw

青臭い理想を掲げることは、時に笑われることもあるでしょう。それでもやり続ければ、いつか何かしらの説得力を帯びてくるもの。

世界の常識なんてその都度変わっていくもので、誰かの強烈な意志が人々の価値観を変えてきた歴史なんていくらでもある。

大事なのは、その理想をどこまで貫けるのかってこと。中途半端で止めれば、痛いやつで終わる可能性だってある。

僕も東京に引越しするときに、中学校、高校の時にこっそり書いていた詩集?みたいなのを捨ててしまったのをとっても後悔しています。まあ、残ってても人に見られて別の意味で後悔していたかもしれませんがw

恥ずかしいことは生きているエネルギーそのもの。何か大切なことが含まれている。

しかし、どうして中二的なことって恥ずかしいんでしょうね?なんだか不思議じゃないですか。

それって多感な時期、エネルギーが有り余っている時期のはみ出した感情や欲望、いろんな意味での生のエネルギーが表現として現れている部分なんじゃないかなと思います。

だから時にいびつで、洗練とは程遠い、でもちょっと愛しくておかしい。

でもそんなエネルギーを人はどこかで持っていないと、生きて行くことさえできないんじゃないでしょうか。

だからこそ、芸術はありつづける。まともに生きているような顔をしていないと信頼が得れない(ような気がしてしまう)この世界で、はみ出してしまう感情の拠り所として。

実際、どうにも追い詰められた、辛い状況でも芸術は生まれる。それを目的にしなくても、溢れ出してしまうエネルギーこそが詩であり、歌であり、芸術なんだと思います。

というわけで、前にもどっかで書いたかもしれないけど、夏目漱石の草枕の冒頭の有名な一節。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

というわけで、真の芸術家は、何かを目的にするわけでもなくても、何かを生み出し続けてしまうわけですね。

そんなものの中からある時ぽんと広く世に受け入れられるようなものができるんじゃないでしょうか。