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たとえ駄作でも、世に問い続けることが大切な理由。

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Hiroshi Yoshida

2016-05-19

アーティストとして世に認められるために必要なこと、それはやり続けること、そして世に放ち続けること。このブログでも再三取り上げていることですが、こんな偉大なアーティストでも見方によっては駄作だらけだという話。

あのピカソでさえ、大半の作品は世界のどこかの地下室に眠っているだけ。

ピカソは「駄作だらけ」の作家であることを、あなたは知っているか。 : まだ東京で消耗してるの?

こちらの記事が面白かったのでシェア。ピカソが史上まれに見るくらい多作の作家であったことは有名ですね。

音楽の世界でも、どこかの大学の研究でバッハやモーツァルトと、同じ時代のその他の作曲家で何が音楽的に違っていたか分析したところ、残っている作品の数が多いという以外は特に大きな違いはなかったという記事をどこかで見たことがあります。

つまり、バッハやモーツァルトと似た様な音楽を作っていた人は同じ時代にいたということ。彼らは特別飛び抜けたものを作っていたわけではなく、あくまで時代のあらゆるものの影響を受けて、その中で自分の作品をたくさん残していったことが、評価につながったということではないでしょうか。

駄作の評価は誰が決める??

しかし、アーティストとしてはやはりもっと踏み込んだところで、自分で明らかに駄作だな、と思うようなものは世に出したくないというのが信条でしょう。もちろんピカソが自分で駄作だと思ったものまで世に出していたとは思いません。

おそらく、ピカソの中ではどの作品も同じように良い出来だったのだと思います。そして熟練していくほど、どう描いたって良いものになる、だからどんどん作品が増えて行く。そういう循環に乗って行ったのではないでしょうか。

駄作の評価はあくまで人それぞれの感じ方だと思いますので、この記事にあるように、ピカソの有名でない作品が駄作、というような考えかたは違うと思いますが、世に受け入れられる作品が生まれるプロセスとしては大いに参考になりますね。

本当に、僕も作曲をたくさんしていて、採用になる曲とならない曲で何が違うかというと、たまたまそこにフィットしたか、しなかったかという要素が大きく、作品として良い悪いの問題ではないということをよく思います。

ヒット曲が生まれるプロセスもまさに同じで、時代のいろいろな感性にフィットするかどうか、たまたまプロモーションで世に出ることができたか、など、いろいろな要素があって生まれるものだと思います。

だからこそ、いろんなチャンスに賭け続ける。一発でドーンと賭けて、それが売れなかったら終わりです、という発想じゃなく、それをやり続けられる体制を整えるということが大切なんですね。